ズートホーン00のこれからどうスラッヂ

「これからどうする?」の土佐弁「これからどうすらぁ?」とMy Favoriteロックンロールバンド「ザ★スラッヂ」をかけて、一時どこかで流行った言葉。そんな、将来への不安をこじらせたような物言いをいまも引きずる、たっすい(頼りない)ブログ。

5Years~「スラッヂ復活」07/12/21新宿URGA当日アジビラ

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スラッヂ復活から5年。またたく間に過ぎていった感がありますね。年齢のせいもあるとは思いマスが(汗)あの日に関わった人たちから「すらとも」が生まれたり、FSMという恐竜の出現、イミテイションズ復活、do the independence、日本買います…。「あの日がなければ今音楽をやってなかった」という声も聞こえてきました。さて次の5年はどうなる?僕は個人的にはある音源をなんとかカタチにできれば、その流れに加担していければ、などと思っています。人生の心残りにならないようにしたいなぁ。てことで、5年前の今日のアジビラ、ここにもあっぷさせてくださいまし。

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20年後の「After the Sludge」、遂に始動!!

 

ザ★スラッヂ。80年代の前半から、もはや伝説の「発狂の夜」「東京バトルディズ2」などを含むライヴ活動を精力的に行い、「箱男」「アフター・ザ・スラッヂ」の2枚のレコードを残して87年6月の下北沢屋根裏を最後に解散。そんなスラッヂがなんと2006年に突如CDリリース、そして2007年12月、バンド名もATS(アフター・ザ・スラッヂ)と改めて、20年ぶりに復活!!…はてさていま、なぜスラッヂなのか??


「奇跡のブログ」との奇妙な出会い

 

2005年12月頃だったか、スラッヂのVo.スガワラ氏から珍しく電話をいただいた。妙にテンションが高く、色めき立つような口調である。なんでもスラッヂを紹介した某ブログを知り、その書き手であるモリモト氏と会ったという。「彼はまだ20代前半なんだよね」「はぁ…ぇええ!?」「今年の7月に片岡さんのソロと『箱男』も紹介してんだけど7月ってなにか意味あったっけ?」。かのモリモト氏は私が昔つくってたミニコミ「Fragile」も読んでいるという。個人的にはこれに一番食いついたんですが、それはこっち置いといて(笑)…。ともかくスラッヂ解散からこの時点で18年は経過している。これは一体何を意味しているのか? 妙に頭にこびりついたのは彼の年齢だった。でも、「リンダリンダリンダ」に出てるベースの娘がビーフハートとザッパ好きっていう時代だし。さもあらん…とも思ったけど、まさかこれがスラッヂCDリリース、そして再結成につながる序章になるとわ…。でも、実はいま思えばスガワラ氏のあのチト興奮気味の口調からある予感はあったのだった。

 

「もしこのバンドが埋もれてしまうなら、日本のロック史は…」

 

その後、話はとんとん拍子に進む。スラッヂの面々と森本氏による会合が重ねられ、それにぼくも加わった。まずはスラッヂのライヴ音源リリースの線で企画が固まる。大量に残されたライヴテープからの選曲・音質補正等はスラッヂのかくれた音楽プロデューサーである片山氏に任された。またスラッヂの黎明期からをよく知る、写真集「GIG」でもおなじみのフォトグラファー・佐藤ジンさんもスタッフに加わる。CDブックレットは、さながらジンさんの作品とスラッヂ日比谷氏のデザインワークによるコラボ空間の様相を呈していた。帯コピーは、ヤマジカズヒデ氏の快諾を得て、氏のmixi日記から、スラッヂへの愛情あふれるコピーが引用された。いわく「20 年前、偶然スラッヂを観たとき、その歌とギターにやられた。片岡さんをオレはひとりで『日本のロバート・クイン』だと思っている」。またパンク音楽評論の第一人者、行川和彦氏からはスラッヂとの出会いを丁寧に綴った素晴らしいライナーも届けられた。こうして、奇跡のブログとの出会いから1年とたたない2006年11月、スラッヂ後期(1985~87年)の未発表ライブ音源ベストセレクション、堂々80分収録のCD「The Brain kept a Rollin’」がリリースされたのだった。プロデューサーである森本氏のライナーにはこうある。「もしこのバンドが埋もれてしまうなら、日本のロック史は重大な見落としをしたとしか思えない」。このような氏の確信と想いに、スラッヂのメンバーもぼくを含むスタッフもあおられ、突き動かされるような濃密な1年が過ぎていった。CDリリース後は、行川和彦氏による「ミュージックマガジン」レビューをはじめ、「DOLL」「レコードコレクターズ」、フリーペーパー等でもことごとく賛辞を得たことも記しておきたい。

 

スラッヂ片岡理氏、逝去

 

ところがそんな熱狂もつかの間、CDリリースからまだ間もない頃。スラッヂの最凶ギタリストであり、私のかけがえのない同郷の友人でもあった片岡理氏の訃報を聞くことになる。片岡氏は2004年頃より、いくつかの心療内科を廻り、カウンセリングを受けていた。2004年の夏は故郷の高知でもいい医師に出会ったと聞いていた。同年10月、片岡氏より「まだ高知におるがです」とメールが届く。10月末に再び上京したときには2人でラフカディオ・ハーン展を見にいったり、月島~門仲散歩、砂町散歩など、まったりと、しかし2~3時間であっさり別れるという展開が続いた。正直体調は万全ではなかったのだ。そしてこの年12月末に高知帰省。翌2005年2月に高知から電話。「4日前に上京したけんど、ある人からよくない話を2つきいて、これはいかんと思って仕事すませて高知へ帰ったところよ」。これをきいて衝撃を受ける。上京して連絡すらなかったことは記憶にないからだ。以来、片岡氏は高知で長い療養生活に入ることになる。ぼくが最後に片岡氏と会ったのは2006年夏、片岡家に近い高知市内の喫茶店だった。片岡氏には「ブレイン・ケプト~」のテスト盤をすでに送っていたが、通して聴いているふうではなかった。だが、「正直ちょっと混乱しちゅう…」「ぼくが選んだがやないきねェ…」とこちらの思いとの温度差は明らかだった。だが、「次は僕がつくるわぇ…ジャケットもやるわ。自分でやらないかなァえ」と強い意欲を見せてくれた片岡さん。ゾクゾクするような前向きな言葉だった……。しかし、そのたった2ヵ月後の10月13日、片岡理氏は自らの命を絶っていたのである。

 

満を持して、ATS始動!

 

2007年。スラッヂのメンバーや関係者一同による片岡氏追悼の会を経て、この大きなショックを乗り越えるべく、満を持してATS(アフター・ザ・スラッヂ)始動! スガワラ氏、片山氏、日比谷氏に加え、スラッヂそして片岡氏の最良の理解者である森本在臣氏(電機姉、堕空、EthNois Arkestra)がまずは名乗りをあげる。さらに片岡氏からの影響の大きさを公言して憚らなかったヤマジカズヒデ氏(dip,qyb)も参加を表明。イレギュラーメンバーとして80年代当時からスラッヂをヘルプしていた本庄氏(元Dip the Flag)も急遽参戦が決定した。

12・21新宿URGA。この日が待望の「CD発売記念&片岡理一周忌追悼ライヴ」となる。ちと遅きに失した感があるとこがいかにもスラッヂらしい(笑)。とはいえ、直近のRHではヤマジ氏が随所に片岡テイストを散りばめた爆音を発していたときく。当日は、あの生々しい高音域の狂ったテレキャスの響きがいつ鳴りだすとも限らない…いや、言霊ならぬ音霊となって、まぎれもない片岡さんのギターが響いてくるとぼくは予感している。まさにこの日が、片岡理の「弔い合戦」となるはずだ。もちろんそれだけではない。あのカリスマ・スガワラ氏のことだ。例えスラッヂの曲だったとしても、そんなこと関係ない。きっと、こちらの予想などあっさり覆すような、全く新たな世界観を秘めた「アフター・ザ・スラッヂ」を見せてくれるに違いないのだ。

(刈谷吉見a.k.a.ズートホーンロロ)

ザ★スラッヂ オフィシャルウェブサイト http://homepage2.nifty.com/hyon/sludge/