ズートホーン00のこれからどうスラッヂ

「これからどうする?」の土佐弁「これからどうすらぁ?」とMy Favoriteロックンロールバンド「ザ★スラッヂ」をかけて、一時どこかで流行った言葉。そんな、将来への不安をこじらせたような物言いをいまも引きずる、たっすい(頼りない)ブログ。

片岡理さん宅を訪ねて~北村静子先生の訃報

1月2日は愛宕をぶらり散策がてら片岡さん宅を訪ねた。お歳暮のお礼をいってなかったのも気になっていた。それと年末年始は弟・工(つかさ)くん(伝説のインディーズバンド、GLASSのギタリスト。アルバムに「Slow Water」など。…それしか聴いたことがない)が帰省しているはずという期待もあった。あいにく工くんは友人宅に出かけているとのことだったが、ご両親はいらしてお話できた。オサム話も少ししたんだけど、突然の訃報をきいて驚いた。おれの親戚で、オカン本の解説も書いてくれた北村静子先生が亡くなったという。静子さんと親しい共通の親戚はいるが、連絡はきてなかった。なんでも去年の11月14日、ご自宅の火事でご主人と二人焼死されたとのことだった。言葉がなかった。静子先生は、長く学校の教諭をつとめ、とくに障害児学級の教育に尽力された。高知県学校図書館評議会の顧問で、よく読書感想文の総評などが新聞にのっていたのを、母にいわれて読んだものだった。これはどこかでも書いたけど、片岡さんとおれとは親つながりで不思議な縁がある。まず、静子先生のお母さんがおれのオカンと仲が良い親戚だった。静子先生も小さい頃、東京から高知に疎開したころのおれのオカンをよく知っている。で、片岡さんのお母さんは、静子先生の大学の同級生で、今に至るまで最も仲のいい親友だったのだ。また、片岡さん自身は静子先生を直接知らなかったが、片岡さんがおれを誘ってよくいってた喫茶「小麦」のママが静子先生の友人で、片岡マザーも知ってる人とあとでわかった。片岡さんも驚いていたが、静子先生はその話をきき、「そりゃ若者もようけおるに、理くんと吉見くんが友達とはしょう世の中せまいねぇ」(まだ若者に見えたらしい…笑)と笑っていた。おれのオカン本に関しても静子先生は高知市内のいくつかの図書館に置いてくれるなど骨を折ってくれた。2年ほど前、はじめて今はないご自宅にお菓子をもって訪ねたのがお会いした最後だった。片岡マザーによると、静子先生は亡くなるひと月前に、母校の「第一高女」(高知県立第一高等女学校のこと)の同窓会が行われ、それの世話役のようなことをされたという。そのことは高知新聞にも報道されている(http://www.kochinews.co.jp/?nwSrl=294583&nwIW=1&nwVt=knd)。敗戦の年に入学し、今年80歳を迎える年だったそうだ。また、昭和24年に公立高校の再編で、男女共学のかの追手前高校ができたが静子先生はその第1期生で、そちらの同窓会の世話役も同時期になさったそうだ。「静子さんは何もかも済ませてから亡くなったがよね」と片岡マザーはあらためて涙ぐんでいた。静子先生と片岡マザー(片岡ふみ子さん。ずっと教職をされてたので片岡ふみ子先生だ)は大学では同じ演劇部で、以来親友で、亡くなる10日ほど前にも手紙が届いたという…。
ご主人と一緒に天国にいかれた北村静子先生。オカン本では心づくしのあとがきをいただき、改めてありがとうございました。心よりお二人のご冥福をお祈りいたします。


(※長くなったけど一応記録として。この日の日記のつづきはまた改めて書きますわ)

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片岡さんちに向かう朝、潜伏先の近所で。高知は黒猫が多い気がする。