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ズートホーン00のこれからどうスラッヂ

「これからどうする?」の土佐弁「これからどうすらぁ?」とMy Favoriteロックンロールバンド「ザ★スラッヂ」をかけて、一時どこかで流行った言葉。そんな、将来への不安をこじらせたような物言いをいまも引きずる、たっすい(頼りない)ブログ。

一柳慧『現代音楽を超えて』を読んで、なぜか芭蕉の俳諧にたどり着いたこと。

今年出版された一柳慧『現代音楽を超えて』を図書館で借りて読んでみた。

一柳慧 現代音楽を超えて

一柳慧 現代音楽を超えて

 

 白眉だったのはⅣ.「俳諧と音楽の創造性をめぐって」。芭蕉が旅の先々で何人か集まるとすぐに歌仙を巻く(連句を三六句まわしていく)行為をみて、食事をとったり旅をしたりする日常的な要素の延長上にあったのではと考え、「芸術と日常をつなげたり、相互に浸透し合ったりするものとして認識していたと理解できる」と。一柳は芸術を純粋表現、自己表現として完結させる西欧的発想とは違うこの行為を応用して、共同制作の作曲を構想した。が、それはかなわずひとりで複数の役割をこなすことでその発想を生かしつつ音楽をつくった。それが「交響曲ベルリン連詩」。ちなみに芭蕉は発句よりも相手の句を受ける「捌き」に真髄があると自分で言っている。逆に発句は自分に劣らぬ句する人も多しと。この本にも「俳諧においては老翁が骨髄」(門人森川許六の俳書より)と芭蕉の言葉を引用してる。音楽もそうだけどこれは他者の介入を受け入れる能力を試されていることだしオリジナリティとはちがう。日常と芸術をつなげていくことと他者と自分をつなげていくことに着目したことは一柳慧の懐の深さとか、逆説的にだけど個人の能力の高さを最もよく表しているのかなと。ケージとの交流や映画雑誌編集者だった純子夫人とのエピソードなども面白いけど、俳諧と音楽を論じたこの部分はエッセイとしても目からウロコといえるほど秀逸でした。


一柳慧:交響曲「ベルリン連詩」 第1楽章