ズートホーン00のこれからどうスラッヂ

「これからどうする?」の土佐弁「これからどうすらぁ?」とMy Favoriteロックンロールバンド「ザ★スラッヂ」をかけて、一時どこかで流行った言葉。そんな、将来への不安をこじらせたような物言いをいまも引きずる、たっすい(頼りない)ブログ。

妻、そして母の境地に…

 

妻、そして母の境地に…
                                 刈谷見南國

 

 新参者ですので、俳句との出会いなど─。10年ほど前、妻が高校時代の同級生と小さな句会を結成した。もともと妻は栃木県芸術祭や宇都宮市民文芸などの創作(小説)・随筆の分野では一席の常連。県の文壇ではかなり知られた存在で、いまは審査員という立場だ。そんな妻が、文芸の出発点だったという「俳句」に原点回帰するかのように始めた句会だった。あるときメンバーが少なくなったからと初めて私に声がかかり、なかば数合わせ的に月1度の句会に参加することになる。
 一方私のキャリアはと言えば、都内(主に単身)で広告コピーライターを生業として約30年。一応文案・文章づくりには長年親しんできたが俳句との接点はほぼゼロだった。妻の句会は少人数のため互選や披講はなし。持ち寄った句を発表して意見を述べ合うシンプルなスタイルだったこともあってか、付き合い気分が抜けず数年間は句会の醍醐味を今ほど知らぬままだったから勿体なかった。コピーライターといっても私の場合その程度で、多くの新人ライターの教育係だった時期もあるが、俳句は使う筋肉も勝手も別物。一皮むけぬままの新人状態が続く。
 転機は約5年前に所謂脱サラをして、宇都宮で妻の念願だった飲食店を二人で開業した頃。お店で開催する句会のうわさがお客さんの口コミなどでひろがり、句歴60年の大先輩をはじめ一癖も二癖もあるアマ俳人が自然集う。句会や吟行も俄然厚みを増し、まわりの俳句熱に感化されるように俳句、句会の楽しさをようやく理解できるようになる。そんな折、私の心境の変化が伝わったか、ある種のGOサインだったのか先生(妻)から俳号を頂戴した。刈谷見南國(かりやみなこく)。刈谷は私の旧姓。「見」は私の名前「吉見」から。「南國」は私の出身地、高知県南国市からとった。私は父母をすでに亡くし、高知の親類にも刈谷姓がいないため、実質消滅した刈谷を復活させようと。ちなみに店の名前も妻が「おかりや」と命名した。それまで俳号などという大層なものとは無縁と思っていたが、おかげでモチベーションはあがったもののプレッシャーも倍増した。それもすべて妻の目論見だったか…。それにしてもここ2~3年の俳句への傾倒は我ながら不思議。例えば休肝日は今まで憂鬱だったが、アルコールのせいで酩酊しない分、俳句に思いを巡らせる時間がふえるから却ってうれしい。
 某俳人の著書に、大学時代の句会の描写がある。留年生ばかりの将来の見えぬ俳句部員たちが屈託に満ちた句を作る。俳句合宿のため東京から電車に乗ると、乗った瞬間から句会がはじまる。一分一秒を惜しむように(以上要約)。こんな状況になぜか今頃憧れる。
 さしあたって今の目標は句が降りてくるという妻の境地にたどり着くことか。もうひとつ。母も生前高知の結社に所属し、句誌にたくさんの句を残していた。ようやく多少は読み解けるようになった今、当時の母の息づかいもわかるよう。あらためて「俳句やりゆうぜよ」と伝えたい(笑)。
 帰省子やズック姿の身軽さに 刈谷益子
 母の句に吾のズックあり春隣  見南國

 

(俳句雑誌「藍」令和4年8月号)